「幸福」とは、結局は自分の考え方次第

「幸福」とは、結局は自分の考え方次第

以前どなたかのブログでショーペンハウアーの幸福論を読んだ方がいいよと書かれていました。そういえば「幸福について -人生論-」という文庫本を働いていた時に買って積ん読状態にしてあったなあと思い、読み始めました。

アリストテレスは人生の財宝を三つに分類し、外的な財宝、心の財宝、肉体の財宝がそれだそうです。

ショーペンハウアーは、無常の人間の運勢に現れた差別の基礎をなすものが、三つの根本規定に帰着させられると述べます。

1.人のあり方。最も広い意味での人品、人柄、人物。したがってこの中には健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成が含まれている。
2.人の有するもの。所有物。
3.人の印象の与え方。これは他人が抱く印象のこと。これは他人の思惑であり、名誉と位階と名声に分けられる。

そして1が一番大事(そして多分ほぼ全て)だと述べています。

人間の快不快は、感じたり意欲したり考えたりする働きの結果だから、外界から生じる原因よりも内なる原因が大きいということで、徐々に読み進めると、いくら富があって刺激的な遊びをしてみても、健康な精神で感じたり考えたり日常を豊かに過ごすことにはかなわない、というようなことが書かれているのだと私は理解しました。

結局は、幸福とは自分の精神の成熟度、考え方次第、気の持ち方だということなのだと思います。

自分の人生に何が起きるかということより、起きたことをどう感じるか。自分の感受性の性質と強度が問題なのだということです。外的要因での不幸は間接的で和らげることも可能であると。「朗らかさ」というものが幸福の実体なのだと。(そしてそういう気分になるためには健康が最重要。今までリタイア関連ブログを読ませてもらって多くの人が語っていたことだと思います)

だから周囲と比較したりせずに、自分の人生はこれでいいんだ十分なんだと考えられるかどうかですよね。周りを見たりするとなかなか難しいとは思いますが、会社を辞めたり人付き合いがないと案外簡単にそう思えるようになってくるような気がします。

Neko68
ねこがいればそこそこ幸せな気もしますが
 

この人はどうも孤独を重んじるようで、なぜかというと人の本来具有するものが多ければ外部から必要とするものは少なくて済むし、また社交の質は社交の量で埋め合わせがつかないから。

「さてまた輸入の必要のほとんどあるいは全然ない国が一番幸福な国であるのと同様に、内面の富を十分にもち、自分を慰める上に外部からはほとんどあるいは全然何ものをも必要としない人間が、いちばん幸福である。」

この辺りがリタイアして隠遁生活を送る人達には強い味方になるのかなということですね。(もちろんそういうリタイアでない人も多いですが) 孤独でも内面の富、精神の富が優秀になれば退屈することはないし、低級な娯楽に走って浪費する事もない。思索するなど娯楽は自分の中に見出せるということだと思います。

いや、また浅い感じにしか書けないけど、ある部分で自分を肯定してくれるような気がしました。(他の部分では自分の低級さが思い知らされるようだけれども) やっぱり本来は若い時に色々な考え方が示された本を読むことですよね。この歳になると自分が生きてきて既に気が付いていることも多いけど、それを若い頃に先人に教えてもらえるという。だけど若い頃だと素直に受け入れられなかったりするのも事実なので難しいのだけれど。

そもそも「幸福に生きる」というのは「あまり不幸でなく」すなわち我慢のなる程度に生きるという意味に解釈すべきものであるということから、幸福論の教えが始まるのでなければならないと記述があります。

最大級の喜びや享楽はなくとも、大過なく過ごせれば、それが幸せという考えですよね。どうしても享楽を求めてしまいがちだけれど、「人間界に、そんなにむきになって求めるほどの価値があるものがあるのか」といわれればどうだろう。そういう境地に達すれば楽なんでしょうけど。

半分まで読んで、紹介と感想でした。こういうのを読んで自分でも新たに考えてみるのもいいですね。

気に入ったら応援していただけると嬉しいです (^^)/
にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ にほんブログ村 ライフスタイルブログ 40代の生き方へ

error: Content is protected !!